天満宮の梅の花
撮影 : 2005/03/11
大平町川連城跡の隣にある川連天満宮の梅の花は紅・ピンクそして白の三本の梅ノ木に綺麗の花を付けていた。この天満宮への参拝者が真新しい多くのおみくじを梅ノ木に付けていた。
川連城は大平町川連の一部と栃木市片柳町にまたがって位置し、応仁年間(1467頃)川連仲利が築城したが、永禄6年(1563)皆川俊宗によって占領され、その後修築されたといわれる複郭の平城で、東西380メートル、南北500メートルという大規模のものだったらしい。俊宗は川連城を占領すると大平山の中腹にあった星住山円通寺を川連へ移した。そして幾多の戦いに討死にした家臣菩提のため川連村の阿弥陀堂で常念物を供養した。その後天正年間(1573~1591)に皆川氏の政策によって2カ寺は栃木へ移され現在の栃木市円通寺と定願寺がそれである。
城の南側には城下繁栄策により村が形成されたが、江戸時代になると例幣使街道が通過し、富田宿と栃木宿をつなぐ中継点となった。
川連城は大平町川連の一部と栃木市片柳町にまたがって位置し、応仁年間(1467頃)川連仲利が築城したが、永禄6年(1563)皆川俊宗によって占領され、その後修築されたといわれる複郭の平城で、東西380メートル、南北500メートルという大規模のものだったらしい。俊宗は川連城を占領すると大平山の中腹にあった星住山円通寺を川連へ移した。そして幾多の戦いに討死にした家臣菩提のため川連村の阿弥陀堂で常念物を供養した。その後天正年間(1573~1591)に皆川氏の政策によって2カ寺は栃木へ移され現在の栃木市円通寺と定願寺がそれである。
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画像提供 : 株式会社ドゥ
システム・ウェブサイト制作の「Do」
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